アニバーサリー

毎年誕生日には日記を書いていたように思う。
とくに目標を立てるでもなく、過ぎた1年を省みるでもなく、だからだれかに祝ってもらうことを期待しているのでもなく、だからよけいに、当日に<個人的な>*1メッセージをもらったり、憶えていてくれたりすることを、ありがたく感じる。関係のない用事で集まってくれることでさえ。祝ってくれなかったり忘れていたりしたところで、僕は腹を立てたりしない。その相手が、僕が<好い>ているひとのひとりなら、すこし、悲しくなっちゃうかもしれないけれど。
前についったーにも書いたことなのだが、もうSNSの類に自分の誕生日を晒すことをやめようと思う。たまたま見かけた<だれかの>誕生日の表示に機械的な反応として吐きだされた「おめでとう」はつらいのです。吐きだす人も吐きだされたことばも、なにも悪くなんてない。ただ、それらに紛れている、ずっと懐で温められていた「おめでとう」を見抜く力は僕にはなくて、たいせつにされてきたことばに対してもつまらない返し方をしてしまわないか、僕は、それが、こわい。
ずっとたいせつにされてきたことば以外は要らない*2し、ずっとたいせつにされていたことば以外できれば言いたくない。傲慢なんだろうが、イライラしながら生きるよりははるかにマシだ。

とびっきり気に入っている服がある。
淡い水色の地に、フルーツタルトをモチーフにした柄がプリントされている、夏物のワンピース。
僕はこのワンピースを<とくべつなようふく>と決めている。だから今年は、一度も着なかった。とくべつなようふくはとくべつな日にしか着ない。とくべつなおようふくをとくべつにするはわたしだ。

*1:ソーシャルネットワーク上でないことがとてもだいじ。

*2:というのは言いすぎで、酷すぎなのかもしれないけれど、実際に祝うとき、たいせつに憶えていた誕生日とたまたま見かけただけの誕生日では、ことばがぜんぜん違うはずだ。無味に近い「おめでとう」を食べる側の身にもなってみてくれ! そもそも誕生日アラート機能デフォ装備みたいなやり方をしているSNSに誕生日を載せる僕が間違いだ、知っている。だから消そうというのだ。

ラベル

さいきん読んだ本に、つい<やってしまった>ことで居場所を転々とすることになる、それまでいた場所にもういられなくなる人が出てきた。彼が<やってしまった>と言う行為が僕にはまったくふつうのことにしか思えず*1、どんな顔をすれば良いのか解からなかった。この人は家族の手によって精神病院に送られる結果になるが、もしそういう類のものだったならば、どんなにかラクなのだろう。自分のある部分の性質に名前がついていて、そのことを自分が知っているというのは、なんとなく幸せなことのように思う。
あれは<染みたち>の話だった。僕はたぶん<染み>単体の話をしたがっている。

ずっと好きだった小説家の話を聞きに行った。大きな講演会のようなものには行ったことがあったけれど、30-40人程度の会場で、間近に小説家に接したのは初めてだった。僕は彼の書く小説が好きなのかよく解からなかったが、ただ、彼の書く物語はたいへん好いている。もう一人、英米文学の研究者兼翻訳家の方がいらしていて、彼らは<越境>について語らなければならなかった。<境>を<越える>、こと、その境が国境を指すならば、くだらない、と僕は考えていた。
彼らは国境を越える話もしたが、しかしそんな話などしていなかった。僕はもう一度、彼の小説を読もうと思う。
絶対で確実な<境>、そして(おそらく)唯一の<境>は<死>だと考える。国境が<境>になるとしたら、それは疑似体験か比喩でしかありえない*2。肝心そのものの境は、生きているうちには体験することができず、だから僕はその代わりとして、<愛>について考えている。これはウケウリ、です。

だれかが質問した。そのだれかは映画をつくっているのだそうだ。「<ひとりになる>ことでしか<創る>ことができないのなら、なにか努力して<ひとりになる>ことはできるのでしょうか」。小説家は、単身でなんの前情報もなしに外国にのりこめばいい、と返したが、それは優しすぎる答えだと感じた。

いつだったかだれかが、という言い方をしてはいるもののいつだったかもだれだったかもはっきりと記憶しているのだが、<ひとり>ということばについて不満をこぼしていたのを覚えている。「ひとりが好きでひとりでいる人と、どうしてもひとりになってしまう人がいる」。僕はそれがよく理解できなかった、と言うより、僕自身がその両方にあてはまると感じた。(本人が自覚していようとそうでなかろうと)ひとりが好きなフリをしているという場合もあると思うが、そうじゃなくて。ひとりが好きだろうと、他人と一緒にいることが好きだろうと、どうしても、ひとりになってしまう人は、いる。<一人>でいるわけじゃなくても<ひとり>でいる人もいる。<孤立>していても<ひとり>じゃない人もいる。

ともだち、かもしれないと思っていた人がいた。かもしれないと思っていたときでさえかもしれないとまでしか思えなかったのは、本当はなんでだったかなんて解からないけれど、いろいろなところが僕に似ていてまた僕に似たがる人を珍しく近くにおいたままにしたものだと思いながらも、決定的なところが僕と異なっているということは、ずっと知っていた。同調を示される度に「解かった気になっていれば良い」と思っていた。たぶん彼女は自分が<染み>だと思っていて、それを隠したがっていた。消したがっていた。たぶん僕は、<染み>じゃなくなりたいと思うことは、それ自体が<染み>なんかじゃない証拠だと思っていた。僕は「<染み>以外のものになりたい」と口にすることがあったが、それは<染み>にしかなれないことへの免罪符にすぎなかった。トランプという道具なしでは時間をもたせることもできないような関係の人たちと、わざわざトランプを持ち出して一緒に時間を過ごしたがる気持ちが解からなかった。上気した頬で楽しげにそういうことを話してくる彼女に苦笑しながら「よかったね」と言うことしかできなかった。
<ひとり>に不満をこぼしていた彼はどっちだったんだろうなあ、今は楽しめているのかなあ、と気に留めることもあるけれど、けっきょくのところ僕はどうだって良いんだろう。そのことに今さら困ったりしなくて良いんだろうなあ、と、諦めに似た気持ちをもてるようになったのはさいきん。

たのしい

*1:「アレ」を殺してしまったのは例外だが、それは程度の問題で、攻撃にかかるという判断は正しいと思う

*2:しかし県境では弱すぎる、そんな気がするのはどうしてだろう

インタビューズがオワコン化してしまったのですが自分で書いておきながら気に入ってしまってどうしても捨てきれない記事があるのではてダに移植します。

印象深い人間っていますか?その方について教えてください。

どのような意味で「印象深い」人について聞かれているのか解かりませんが、質問を聞いて思い浮かんだ人が一人しかいないので、その方について話そうと思います。

初めて会ったのは大人数での飲み会です。僕の後ろにいた人と話していました。狭い場所に無理やり入りこんできたので、ぶつかりそうで邪魔でした。きっと向こうもそう思っていたでしょう。好きなものについて話しているようでした。それは僕の好きなものではありませんでしたが、僕はそちらの話が気になってしまって、変な対抗心を燃やしたのか、自分の話していた相手と相手の好きなものについて楽しく話しているかのように装っていました。それもまた、僕の好きなものではなかったのですが。背中が当たります。するとその人は突然振り向いて、「○○は好きですか、××のなかで好きなものはありますか」と僕に聞いてくれました。僕は、好きではありません、よく知りません、と答えました。
しばらく後に、駅のエスカレータで遇いました。僕は上で、2段下にいる友人と喋っていて、その人はさらに2段下にいました。初めはその人と解かりませんでした。目が合いましたが、その人だとすぐに判別できず、挨拶をし損ねました。その人は僕を僕と気づいたようでした。

何度も顔を合わせることがあったし、長くはありませんが、天気の話じゃない、会話もしました。でも挨拶だけはどうしてもできない。もしかしたら僕は淡い色をした憧れを抱いていて、恥じらいのようなもののせいで挨拶ができないのではないか、そう考えたこともありました。でも、おそらく、そのような類のものではなかったと思います。会うたびに、話すたびに、僕はとてもこわかった。その人の目が、とてもこわかった。僕の知識の浅さや、嘘で固めている部分、笑顔をつくってごまかそうとしていること、すべて見抜かれているようで。周りに知識をひけらかしたりはしないけれど、その人がとても多くの物事を知っている、と知っていただけに余計に。それまでは憧れていた、いわゆる文学少年、を避けるようになったのは、たぶんその人が原因です(文学少女をとくに恐れることがなかったのは、文学少年と文学少女は字面が似ているだけでかなり質の異なるものだからです)。僕もあの人みたいになりたい。こわいと思いながらも、どこかでそう思っていました。そういう種類の憧れだったと思います。

あるとき、取っている授業が一緒だったことがありました。その人は教室の前方に座っていて、僕はそれに気づきましたが、またどうせ挨拶できないんだろうと諦めていました。授業が終わって帰る支度をしていると、視界に一瞬、影が差し、また明るくなるのを感じました。目を上げると、すこしばつが悪そうに、「あ、この授業取ってるの」とその人が。取ってるから出席しているのですよ、と思いながら、こくりと頷くだけでした。それからちょっとがんばって挨拶、というか、会釈、くらいはするようになるのですが、しばらくするとまたできなくなります。

それから今まで、ずっと、まともに挨拶できていません。そのくせ、やたらと出くわします。たぶん、嫌われていると思われている、と思います。でも、印象深く残っているし、むしろより深くなっていくと思います。そういう方でした。


元記事

僕は歩くのが速い。なにをそんなに急くことがあるのか、いそいそと歩く。
僕は前の人にちんたら歩かれるのが嫌い。遅いならせめて端に避けてろ。
だから、人ゴミを歩くと、僕は、なんだかコワイ人になる。苛立っているし、舌打ちするし、小声で悪態をつくこともある。我ながらどーなのよって思う。
人ゴミをぬって進むあの感覚はきらいじゃないけれど、舌打ちとかしちゃう自分になってしまうのはすきじゃない。
歩をゆるめると人ゴミは楽しいものになる、それは知っているのだが、セカセカした僕にとって、それはいつもできることでも、簡単にできることでもない。

ときどき、僕は、イライラするためにわざと人ゴミを歩く。
「俺の前でてろてろ歩いてんじゃねーよ」を幾度も唱えながら、「くそが」と罪のない人々に心の中で毒づきながら、苛立っている自分に舌を打ち、苛立ちをさらに増長させながら。
イライラするために、わざと人ゴミを歩いている。

だれがどこで読んでくれているかなんて解からなくて、嬉しかったりもするけれど、
だれかが読んでいないこともまた、解からないものだ。

読まれていないところで、当てつけに書いている。
きっと後日、後悔すると知りながらも。

ほっぺたをつねってやるくらいのことができれば、満足するのだけれど。どっどど。

僕自身が自分の命に対して執着がないのではないかと言われれば、たしかし*1、自分がしぬのは良くても、自分が愛しいと思う人がしぬのは良くないのだ*2。自分がすきな人は気にするが、どうでも良い人はどうでも良いってこと。そして<自分のすきな人>というごくわずかな人以外はすべて<どうでも良い人>に分類されるということ。だからたぶん、彼らを心配できないことへの罪悪感は消えない。「対処ということにしようと思う」と書いたように、解決などまったくしていないのだが、ただ吐き出して、もう考えるのをやめにしたかっただけ。だれかに

前にちらっと口に出した「病気のときに向けられる<優しさ>」について書いてみようと思う。いろいろな、それぞれがまったく異なったことを考えても、よく(チラッ(チラッと顔を覗かせるくせに、もやっとしたままにしてきたので、一度ちゃんと説明してみようとしてみるだけのあれ。といちおう保険をかけておこう。*1
初めてちゃんと問いの形をとったのが約2年前。ついったーのpostを引用しておく。

1つ目と2つ目で視点がずれてしまっているのはご愛嬌。僕がなにを思ってそうpostしたのかというと、たとえば、ふだんからどうも好き*2になれないなーと思っていたり、酷い喧嘩の最中であったりしても、相手がなんらかの<弱い状態>に陥った場合、その人に対しての心配や<優しさ>(あるいはそのポーズ)をふるまわないと、それが悪のように見えてしまうという構図が非常に気に食わなかった、そんなところだったと思う。自身が実際にそれに近い状態にあったものだから、自分は間違っていないと言いたかったのもあったんだろう。あった。で、たぶん、「ふだんから好きになれないと思っていた」とか「いがみ合っている」とかじゃなくて、ふつうに、問題のない、良好な関係にあったとしても、<弱い状態>にはふだんよりも多くの<優しさ>でお送りされている。その<優しさ>は、<痛み*3>のような、あるいは僕における<心配すること>のような、ポーズでなりたった記号にすぎないのではないか。<優しさ>をふるまわないと後味が悪いという構図ができあがっているために、<弱い状態>にある人のためというよりは自分自身のために、パフォーマンスをしているのではないか。そして、前述の状態にあったとき、僕は後味の悪さを感じながらも最後まで<優しさ>をふるまわなかったが、それは単に、自分のうしろめたさを軽減させるために<優しさ>のポーズをとるという選択肢のほうが僕にとってより後味の悪いものだったからにすぎない。
もちろん、ポーズだろうとパフォーマンスだろうと、それらがふるまわれるほうが受け手にとっては嬉しいだろう、ということは承知している。熱に喘ぐ人や心が参っている人を看病するな放置しろと言っているのではない。慢性的か一時的かという違いもあるし、同列に語って良い問題なのかということについては、もっとちゃんと検討する必要があるけれど、障害をもっていう人に対する<優しさ>について考えてみると、すこしは解かりやすいかもしれない。
けっきょく僕はたぶん表層で起こるなにかによって接し方を変えてほしくないんだと思う。病気のときにふるまわれる<優しさ>(を帯びた行為)は、つねに潜在していたものが顕在した結果としての行為でなければならない。そんなことできるのか。不可能ではないと考えている。が、そのとき潜在しているものは<優しさ>と呼ばれるものとは別物であるような気もする。

*1:ってなると地震は完全にダシと化すなー

*2:not<すき>

*3:d:id:pepperilla:20110413 最後のカタマリ

人目にさらして良いものかずっと悩んでいたけれど気にしないことにして投下してみるのだ投下して忘れるのだ

大きな地震が起こったらしい。僕は動物園にある爬虫類や両生類を飼育している建物のなかにいた。大きく揺れたときは建物中の人が外に一度出たけれど、その後はなにもなく、さいごまでゆっくり楽しんだ。
帰宅してコンピュータをつけると、かなり大きな地震であったことがついったーのタイムラインから解かった。震源に近い地域の親類・知人を心配する声や、停電の報告、災害時にしてはいけないこと・するべきこと・募金の呼びかけなどのRTが飛び交っていた。
僕はまったく興味をもてなかった。
もちろん、自分に直接大きな被害がなかったからということもあるかもしれない。でも、たぶん(経験しないと解からないことだろうし、こういう言い方しかできないが、)家族が巻きこまれても、自分が大被害をくらっても、さほどの興味はもてないと思う。

最初の地震の翌日、地震のニュースばかり流れ、いつも観ているアニメがやっていないことに、僕は腹を立てた。腐ってるなあ、と思った。
恐怖に震えることも、来るかもしれない災害に備えることも、益になりそうな情報を広めることも、被災者の無事を祈ることすらも、僕にはできなかったし、する気にもなれなかったけれど、僕はたぶん、それらが正しい姿だと思ってはいた。
遠くの国で起こっている災害や戦争や伝染病や、そういうことと同じように、同じように、興味が持てなかった、それだけだ。
別に被災者のためになにかやろうとする行為をいけないと感じたり滑稽に思えたりということではない。ディスる気もない。むしろ偉いと思っている、心から。
でも僕はなにもしない。
そしてそんな自身の状態に困惑した。

僕はふだんから「病気のときに向けられる<優しさ>」について疑問を持っていたが、これと似たようなことなのかもしれない。愛してくれるならいつも同じように愛してほしい。憎んでくれるならどんなときも同じように憎んでほしい。つまらない表層の部分で考えや態度を変えないでほしい。いつでも僕に向かって差しのべられた手でなければ、おそらく僕はその手をとりたいという気持ちをもてない。いつも同じだけの愛を向けることなどできるわけない。そうなのかな。

僕は、他人を心配することができない。ふつう言われている<心配すること>というのがどんななのか解かっていない。ある人の<痛み>がどんなふうかなんて他人には理解できず、呻きや表情の歪みをその表れとして捉えるしかないように、僕が「大丈夫か」「お大事に」などと声をかけるのは、心配することの記号をまねているにすぎない。興味をもてない人にはなにがあっても興味をもつことはないし、いとしく思っている人は、絶えずいとしく思っている。絶えず<心配している>と言っても良いと思う。興味をもたないことにも、もつことにも、始めと終わりという地点は特定であれ不特定であれ存在せず、常に0でなければ常に1であるしかない。
だから、どんな災害やら戦争やらが起ころうと、その土地に興味がなければ、巻きこまれた人に興味がなければ、僕はそういうものとしてやりすごす。善意も悪意も、どんな気持ちも向けることができない。そういうことにしてこの困惑へのとりあえずの対処ということにしようと思う。