人目にさらして良いものかずっと悩んでいたけれど気にしないことにして投下してみるのだ投下して忘れるのだ

大きな地震が起こったらしい。僕は動物園にある爬虫類や両生類を飼育している建物のなかにいた。大きく揺れたときは建物中の人が外に一度出たけれど、その後はなにもなく、さいごまでゆっくり楽しんだ。
帰宅してコンピュータをつけると、かなり大きな地震であったことがついったーのタイムラインから解かった。震源に近い地域の親類・知人を心配する声や、停電の報告、災害時にしてはいけないこと・するべきこと・募金の呼びかけなどのRTが飛び交っていた。
僕はまったく興味をもてなかった。
もちろん、自分に直接大きな被害がなかったからということもあるかもしれない。でも、たぶん(経験しないと解からないことだろうし、こういう言い方しかできないが、)家族が巻きこまれても、自分が大被害をくらっても、さほどの興味はもてないと思う。

最初の地震の翌日、地震のニュースばかり流れ、いつも観ているアニメがやっていないことに、僕は腹を立てた。腐ってるなあ、と思った。
恐怖に震えることも、来るかもしれない災害に備えることも、益になりそうな情報を広めることも、被災者の無事を祈ることすらも、僕にはできなかったし、する気にもなれなかったけれど、僕はたぶん、それらが正しい姿だと思ってはいた。
遠くの国で起こっている災害や戦争や伝染病や、そういうことと同じように、同じように、興味が持てなかった、それだけだ。
別に被災者のためになにかやろうとする行為をいけないと感じたり滑稽に思えたりということではない。ディスる気もない。むしろ偉いと思っている、心から。
でも僕はなにもしない。
そしてそんな自身の状態に困惑した。

僕はふだんから「病気のときに向けられる<優しさ>」について疑問を持っていたが、これと似たようなことなのかもしれない。愛してくれるならいつも同じように愛してほしい。憎んでくれるならどんなときも同じように憎んでほしい。つまらない表層の部分で考えや態度を変えないでほしい。いつでも僕に向かって差しのべられた手でなければ、おそらく僕はその手をとりたいという気持ちをもてない。いつも同じだけの愛を向けることなどできるわけない。そうなのかな。

僕は、他人を心配することができない。ふつう言われている<心配すること>というのがどんななのか解かっていない。ある人の<痛み>がどんなふうかなんて他人には理解できず、呻きや表情の歪みをその表れとして捉えるしかないように、僕が「大丈夫か」「お大事に」などと声をかけるのは、心配することの記号をまねているにすぎない。興味をもてない人にはなにがあっても興味をもつことはないし、いとしく思っている人は、絶えずいとしく思っている。絶えず<心配している>と言っても良いと思う。興味をもたないことにも、もつことにも、始めと終わりという地点は特定であれ不特定であれ存在せず、常に0でなければ常に1であるしかない。
だから、どんな災害やら戦争やらが起ころうと、その土地に興味がなければ、巻きこまれた人に興味がなければ、僕はそういうものとしてやりすごす。善意も悪意も、どんな気持ちも向けることができない。そういうことにしてこの困惑へのとりあえずの対処ということにしようと思う。