ラベル

さいきん読んだ本に、つい<やってしまった>ことで居場所を転々とすることになる、それまでいた場所にもういられなくなる人が出てきた。彼が<やってしまった>と言う行為が僕にはまったくふつうのことにしか思えず*1、どんな顔をすれば良いのか解からなかった。この人は家族の手によって精神病院に送られる結果になるが、もしそういう類のものだったならば、どんなにかラクなのだろう。自分のある部分の性質に名前がついていて、そのことを自分が知っているというのは、なんとなく幸せなことのように思う。
あれは<染みたち>の話だった。僕はたぶん<染み>単体の話をしたがっている。

ずっと好きだった小説家の話を聞きに行った。大きな講演会のようなものには行ったことがあったけれど、30-40人程度の会場で、間近に小説家に接したのは初めてだった。僕は彼の書く小説が好きなのかよく解からなかったが、ただ、彼の書く物語はたいへん好いている。もう一人、英米文学の研究者兼翻訳家の方がいらしていて、彼らは<越境>について語らなければならなかった。<境>を<越える>、こと、その境が国境を指すならば、くだらない、と僕は考えていた。
彼らは国境を越える話もしたが、しかしそんな話などしていなかった。僕はもう一度、彼の小説を読もうと思う。
絶対で確実な<境>、そして(おそらく)唯一の<境>は<死>だと考える。国境が<境>になるとしたら、それは疑似体験か比喩でしかありえない*2。肝心そのものの境は、生きているうちには体験することができず、だから僕はその代わりとして、<愛>について考えている。これはウケウリ、です。

だれかが質問した。そのだれかは映画をつくっているのだそうだ。「<ひとりになる>ことでしか<創る>ことができないのなら、なにか努力して<ひとりになる>ことはできるのでしょうか」。小説家は、単身でなんの前情報もなしに外国にのりこめばいい、と返したが、それは優しすぎる答えだと感じた。

いつだったかだれかが、という言い方をしてはいるもののいつだったかもだれだったかもはっきりと記憶しているのだが、<ひとり>ということばについて不満をこぼしていたのを覚えている。「ひとりが好きでひとりでいる人と、どうしてもひとりになってしまう人がいる」。僕はそれがよく理解できなかった、と言うより、僕自身がその両方にあてはまると感じた。(本人が自覚していようとそうでなかろうと)ひとりが好きなフリをしているという場合もあると思うが、そうじゃなくて。ひとりが好きだろうと、他人と一緒にいることが好きだろうと、どうしても、ひとりになってしまう人は、いる。<一人>でいるわけじゃなくても<ひとり>でいる人もいる。<孤立>していても<ひとり>じゃない人もいる。

ともだち、かもしれないと思っていた人がいた。かもしれないと思っていたときでさえかもしれないとまでしか思えなかったのは、本当はなんでだったかなんて解からないけれど、いろいろなところが僕に似ていてまた僕に似たがる人を珍しく近くにおいたままにしたものだと思いながらも、決定的なところが僕と異なっているということは、ずっと知っていた。同調を示される度に「解かった気になっていれば良い」と思っていた。たぶん彼女は自分が<染み>だと思っていて、それを隠したがっていた。消したがっていた。たぶん僕は、<染み>じゃなくなりたいと思うことは、それ自体が<染み>なんかじゃない証拠だと思っていた。僕は「<染み>以外のものになりたい」と口にすることがあったが、それは<染み>にしかなれないことへの免罪符にすぎなかった。トランプという道具なしでは時間をもたせることもできないような関係の人たちと、わざわざトランプを持ち出して一緒に時間を過ごしたがる気持ちが解からなかった。上気した頬で楽しげにそういうことを話してくる彼女に苦笑しながら「よかったね」と言うことしかできなかった。
<ひとり>に不満をこぼしていた彼はどっちだったんだろうなあ、今は楽しめているのかなあ、と気に留めることもあるけれど、けっきょくのところ僕はどうだって良いんだろう。そのことに今さら困ったりしなくて良いんだろうなあ、と、諦めに似た気持ちをもてるようになったのはさいきん。

たのしい

*1:「アレ」を殺してしまったのは例外だが、それは程度の問題で、攻撃にかかるという判断は正しいと思う

*2:しかし県境では弱すぎる、そんな気がするのはどうしてだろう