僕自身が自分の命に対して執着がないのではないかと言われれば、たしかし*1、自分がしぬのは良くても、自分が愛しいと思う人がしぬのは良くないのだ*2。自分がすきな人は気にするが、どうでも良い人はどうでも良いってこと。そして<自分のすきな人>というごくわずかな人以外はすべて<どうでも良い人>に分類されるということ。だからたぶん、彼らを心配できないことへの罪悪感は消えない。「対処ということにしようと思う」と書いたように、解決などまったくしていないのだが、ただ吐き出して、もう考えるのをやめにしたかっただけ。だれかに
前にちらっと口に出した「病気のときに向けられる<優しさ>」について書いてみようと思う。いろいろな、それぞれがまったく異なったことを考えても、よく(チラッ(チラッと顔を覗かせるくせに、もやっとしたままにしてきたので、一度ちゃんと説明してみようとしてみるだけのあれ。といちおう保険をかけておこう。*1
初めてちゃんと問いの形をとったのが約2年前。ついったーのpostを引用しておく。
もちろん、ポーズだろうとパフォーマンスだろうと、それらがふるまわれるほうが受け手にとっては嬉しいだろう、ということは承知している。熱に喘ぐ人や心が参っている人を看病するな放置しろと言っているのではない。慢性的か一時的かという違いもあるし、同列に語って良い問題なのかということについては、もっとちゃんと検討する必要があるけれど、障害をもっていう人に対する<優しさ>について考えてみると、すこしは解かりやすいかもしれない。
けっきょく僕はたぶん表層で起こるなにかによって接し方を変えてほしくないんだと思う。病気のときにふるまわれる<優しさ>(を帯びた行為)は、つねに潜在していたものが顕在した結果としての行為でなければならない。そんなことできるのか。不可能ではないと考えている。が、そのとき潜在しているものは<優しさ>と呼ばれるものとは別物であるような気もする。