僕自身が自分の命に対して執着がないのではないかと言われれば、たしかし*1、自分がしぬのは良くても、自分が愛しいと思う人がしぬのは良くないのだ*2。自分がすきな人は気にするが、どうでも良い人はどうでも良いってこと。そして<自分のすきな人>というごくわずかな人以外はすべて<どうでも良い人>に分類されるということ。だからたぶん、彼らを心配できないことへの罪悪感は消えない。「対処ということにしようと思う」と書いたように、解決などまったくしていないのだが、ただ吐き出して、もう考えるのをやめにしたかっただけ。だれかに

前にちらっと口に出した「病気のときに向けられる<優しさ>」について書いてみようと思う。いろいろな、それぞれがまったく異なったことを考えても、よく(チラッ(チラッと顔を覗かせるくせに、もやっとしたままにしてきたので、一度ちゃんと説明してみようとしてみるだけのあれ。といちおう保険をかけておこう。*1
初めてちゃんと問いの形をとったのが約2年前。ついったーのpostを引用しておく。

1つ目と2つ目で視点がずれてしまっているのはご愛嬌。僕がなにを思ってそうpostしたのかというと、たとえば、ふだんからどうも好き*2になれないなーと思っていたり、酷い喧嘩の最中であったりしても、相手がなんらかの<弱い状態>に陥った場合、その人に対しての心配や<優しさ>(あるいはそのポーズ)をふるまわないと、それが悪のように見えてしまうという構図が非常に気に食わなかった、そんなところだったと思う。自身が実際にそれに近い状態にあったものだから、自分は間違っていないと言いたかったのもあったんだろう。あった。で、たぶん、「ふだんから好きになれないと思っていた」とか「いがみ合っている」とかじゃなくて、ふつうに、問題のない、良好な関係にあったとしても、<弱い状態>にはふだんよりも多くの<優しさ>でお送りされている。その<優しさ>は、<痛み*3>のような、あるいは僕における<心配すること>のような、ポーズでなりたった記号にすぎないのではないか。<優しさ>をふるまわないと後味が悪いという構図ができあがっているために、<弱い状態>にある人のためというよりは自分自身のために、パフォーマンスをしているのではないか。そして、前述の状態にあったとき、僕は後味の悪さを感じながらも最後まで<優しさ>をふるまわなかったが、それは単に、自分のうしろめたさを軽減させるために<優しさ>のポーズをとるという選択肢のほうが僕にとってより後味の悪いものだったからにすぎない。
もちろん、ポーズだろうとパフォーマンスだろうと、それらがふるまわれるほうが受け手にとっては嬉しいだろう、ということは承知している。熱に喘ぐ人や心が参っている人を看病するな放置しろと言っているのではない。慢性的か一時的かという違いもあるし、同列に語って良い問題なのかということについては、もっとちゃんと検討する必要があるけれど、障害をもっていう人に対する<優しさ>について考えてみると、すこしは解かりやすいかもしれない。
けっきょく僕はたぶん表層で起こるなにかによって接し方を変えてほしくないんだと思う。病気のときにふるまわれる<優しさ>(を帯びた行為)は、つねに潜在していたものが顕在した結果としての行為でなければならない。そんなことできるのか。不可能ではないと考えている。が、そのとき潜在しているものは<優しさ>と呼ばれるものとは別物であるような気もする。

*1:ってなると地震は完全にダシと化すなー

*2:not<すき>

*3:d:id:pepperilla:20110413 最後のカタマリ