先日、注文した本『らくだこぶ書房21世紀古書目録』を受け取りに、バイト先の書店に行った。レジを打ってくれたパートのおばさま、本の題名や装丁が気になっていたみたいでなにか言いたげだったので、「クラフト・エヴィング商會の本ってどれもすてきですよね」と言うと、「それって吉田篤弘だよね。私、吉田篤弘の本大好きなの。この人の紡ぎだす物語が……」と、ぽつぽつ語った。『パロールジュレと紙屑の都』(数週間、注文棚においてあって気になっていた)はあなたの仕業だったか。その語った内容よりも、僕は彼女が「紡ぎだす」と言ったことに引っかかった。ごく自然に、そこには当然そのことばがいるべきだというように、それ以外のことばでは形容できないというように、そこに彼女の「紡ぎだす」はあったのだ。こういうことばが身に滲みている人が身近にいることに僕はちいさく感謝した。
「雨足が強くなってきたね」と言って高校の級友におかしがられたことがあるが、僕はいまだにあのときの雨に対して、「雨足が強くなった」以外の言い方を知らない。

大学の講堂の前を通りがかると、芝生でとんぼが群れていた。夏が終わる。四季で1年がきれいに4等分になるCfaで暮らしているはずなのに、夏だけがいつも早足でかけ去ってしまう。熱帯で過ごす1年は寒帯での1年より目まぐるしいのだろうか。いずれにしろ、夏は終わる。
あとに僕のだいすきな僕の季節が待っているというのに、夏の終わりだけが妙に淋しい。淋しいけれど、引きとめたいという気にはならない。

「もうすぐおとめ座になりますものねえ」

ひとに贈るものを選ぶのは楽しい。その人が好きな色も好きな味も柄も形もぜんぜん知らないけれど、知っているわずかなことから、なにをあげたら喜んでもらえるか、解ろうとするのが楽しい。あげる相手のためでももちろんあるのだろうけれど、それよりもずっとはるかに僕自身のためである。
そのせいか、パーティーのプレゼント交換などで特定できない人のためにプレゼントを選ぶのは苦手だ。誰でもいい人のために選んだものをもらって喜んでくれる顔なんて思い浮かべられない。
ときどき、買うだけ買って渡せないことがある。そのまま何ヵ月も経って、よけいに渡しづらくなってしまったりして、しかたなく自分で開けてしまうこともある。喜んでくれたであろう顔は僕の頭の中に残ったままになる。それはそれでいっか、と思う。やっぱり相手のためなんかじゃぜんぜんないのかも知れない。

加賀愛ちゃんはどうして「ごめんなさい」でも「すみません」でもなく「すいません」と言うのかということについて考えるふりをしてほんとうはまったく別のことを考えていましたが、それについては内緒です。

影が薄くなっただの精気がないだの散々言われて癪なのだが、自分で選んだ結果そうなったならまあ仕方ないかと思っている。弱さを排除した強さ(モドキ)じゃなくて弱さによりそった強さが欲しいのだ。

言語以前のものを形にするにはことばはあまりに無力だけれど、僕がことば以外でそれを表現することはとても想像できない。散文では難しいと思うけれど韻文ならあるいは、と思い始めたところ。

包んだり覆い隠したりせずにことばを吐き出したいと思うのだけれど、他人に見られると思うとどうしても見てくれを少しでも良くしようとしてしまうみたい。なにも考えずなにも決めずに白い紙あるいは画面に向かってその場その場でぱっと出てきたものを文字にしていきたい。そうやって書きあがったものに意味なんてなくてもいいしあったってべつに構わないし、ただ僕がそのときなにかを考えていた、あるいは考えようとしていた、という痕跡がそこにあればそれでいい。