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先日、注文した本『らくだこぶ書房21世紀古書目録』を受け取りに、バイト先の書店に行った。レジを打ってくれたパートのおばさま、本の題名や装丁が気になっていたみたいでなにか言いたげだったので、「クラフト・エヴィング商會の本ってどれもすてきですよね」と言うと、「それって吉田篤弘だよね。私、吉田篤弘の本大好きなの。この人の紡ぎだす物語が……」と、ぽつぽつ語った。『パロール・ジュレと紙屑の都』(数週間、注文棚においてあって気になっていた)はあなたの仕業だったか。その語った内容よりも、僕は彼女が「紡ぎだす」と言ったことに引っかかった。ごく自然に、そこには当然そのことばがいるべきだというように、それ以外のことばでは形容できないというように、そこに彼女の「紡ぎだす」はあったのだ。こういうことばが身に滲みている人が身近にいることに僕はちいさく感謝した。「雨足が強くなってきたね」と言って高校の級友におかしがられたことがあるが、僕はいまだにあのときの雨に対して、「雨足が強くなった」以外の言い方を知らない。
「もうすぐおとめ座になりますものねえ」
ひとに贈るものを選ぶのは楽しい。その人が好きな色も好きな味も柄も形もぜんぜん知らないけれど、知っているわずかなことから、なにをあげたら喜んでもらえるか、解ろうとするのが楽しい。あげる相手のためでももちろんあるのだろうけれど、それよりもずっとはるかに僕自身のためである。そのせいか、パーティーのプレゼント交換などで特定できない人のためにプレゼントを選ぶのは苦手だ。誰でもいい人のために選んだものをもらって喜んでくれる顔なんて思い浮かべられない。ときどき、買うだけ買って渡せないことがある。そのまま何ヵ月も経って、よけいに渡しづらくなってしまったりして、しかたなく自分で開けてしまうこともある。喜んでくれたであろう顔は僕の頭の中に残ったままになる。それはそれでいっか、と思う。やっぱり相手のためなんかじゃぜんぜんないのかも知れない。