いちおう断っておくと上で言ってる好きって恋愛感情に限らないし、なんでもかんでもそういうものに置き換えて考えるのってどうなの?って思わないでもないし、「恋愛感情」ってなんで恋と愛をいっしょくたにして考えるのかなあまったくの別物じゃんとか思わないでもないしむしろ強くそう思うし、僕の言う好きは恋というより愛だ。学部メイトその他の人たちと話していてずっとずれていると感じていたのはこれだと思う。僕はたぶん他人の言う恋は好き以下に位置づけているんだと思うしなんかてきとうに心に浮かんだこと文字にしていくのって楽しいですね。

見た目だろうと中身だろうとステータスだろうと人の「ある部分」が好きというのが嫌で(たとえば、目が好きだとして、その人と同じ目をしているなら良いのか、優しいところが好きだとして、その人の同じ優しさを持っているなら良いのか、一部分だけじゃなくて他の部分と複合的だとしても同じこと)、僕の言う好きは、そっくりそのまま瓜二つの人が現れてもコピーじゃなくてオリジナルをとるような好きだと説明していた(といっても他人に言ったことはないので説明対自分)のだけれど、じゃあどうやって区別すんだよとか聞かれたら何も答えられないし自分で考えてもやっぱりいみふにすぎるしでもやっぱりこれで正しいような気もして訳が解らないし吐きたいげろげろ。

口で言うときは僕だっていいかげんなこともある、の方が多いかもしれないし、ある程度しかたのないことだとも思う。自分の口から出るつまらない愛のない薄っぺらの気が利いていさえしないことばに胸を突かれ、もう何も喋りたくないと考えることもままあるけれども。

他人のことばに対してざらついた気持ちになることが、ここのところ多い。ことばの一つひとつに載せるものが重すぎるのだろうか。僕は僕自身にストイックすぎると言われたことを思い出す。そうなのかも知れないと思う。それを他人に求めてはいけないとも思う。ことばは事物のラベルで、しかも正しいとは限らず、適切だとも限らず、でもだからこそ僕は、愛をこめて大切に扱いたいのだ。その結果、沈黙せざるをえなくなっても。
他人のことばにかなしむくせに自分は沈黙することしかできないなんて。でも何も話さないことはそれ自体でひとつのことばで、僕は積極的に沈黙を選択しているのである。

他人の書いた文章に触発されて、何かを書こうと、とりあえずもっとアウトプットしようと、ここさいきん、それまで何かあったときにしか触れなかった紙媒体の日記を毎日つけるようにしている。しかし、何を書いても締まりがなくて、いつも「けっきょく何だったんだろう」という結果になってしまう。授業の課題などでレポートを書くときも、いつも何を言いたいのか解らないまま、ただ書いていただけだったような気がする。何かを誰かに伝えたいなんて気持ちは、僕にはなくて、言いたいこともなくて、だからきっと締まらないんだろう。それでも何かを書きたいと思うのは、たぶん、言いたいことなんてなくても書くこと自体が楽しいからだ。まだ言葉になっていない、もやっとした状態の思い*1に、言葉を当てはめていくのが楽しくて、またそれを文字として書きつけたり打ち出したりすることが楽しいのだと思う。書くために書く。これは一種の純粋行為なのだろうか。言いたいことはほんとうにないのだろうか。

*1:あえて思考とは言わないでおく

スミノフアイスに入っているのはグレープフルーツジュースじゃなくてレモン風味の液体だった

紙で切ったのか、ちょうどホクロモドキがあったところの皮が切れた*1。びらびらしていたので、しばらく様子をみていたけれど、哀れだったので切ってやった。その後まだ、そういったものは体中どこにも見当たりません。くまなく探したわけではないけれど。どうやら死はまぬがれたようです。というわけで心中しようぜ。