もう過去にも未来にもいない*4

21年もの時間を生きて、はじめて気付いた。
誕生日って、こんなに悲しい日だったんだ。
学部メイトらには、りありあした飲み会を開いてもらったし、ついったーのタイムラインにはおめでとうpostが並んでいたし、携帯電話は家族や友人からのメールでうるさかった。すなおにありがたかった。それでも、なぜか無性に悲しくなって、しばらくの間、枕に顔をうずめ、声を上げて泣いた。音をたてずにすすり泣くことはよくあるが、声を立てることはめったにないので、自分でも、何が悲しいのか解らないので余計に、驚いた。涙でぐちゃぐちゃの顔で、「おめでとう」と言ってくれたネットの中の人たちに、一人ひとり、「ありがとう」を返した。ありがたかったのも、嬉しかったのも、嘘ではなかったけれど、悲しさが止まっていた訳ではなかった。
そもそも、どうして「誕生日=楽しい・嬉しい日」の図式が出来上がっているのだろう。生まれて10年とか20年とかを記念することに何の意味があって、なおかつそれが楽しかったり嬉しかったりするの。プレゼントをもらえるから? そんな安易な理由? そもそもなんでプレゼントもらえるの? プレゼントに見合うようなことをした訳でもなさそうなのに、どうして当たり前のように、誕生日には何かをもらえると思い込んでいるのさ。
それでも、去年の誕生日までは、まだ、どちらかといえば楽しかった。「大人」になるのは怖かったけれど、引き換えに得られるものがはっきりしていた。得られるものがあっても、歳をたべた後、やっぱりティーンのままでいたかったと思ったくらいなのに。いわんやもう1歳をや。
「1年間を無為に過ごした・棒に振った」というのではない。20から21にかけての1年間、僕には様々な面で意味のある変化があった。無為に過ごしたという意識はない。何か大きなことを成し遂げたというのではないけれど。
将来への不安というのとも、違う気がする。怖いんじゃなくて、ただ、悲しかった。
どうして悲しかったのか、涙が止まらなかったのか、けっきょくよく解らなかった。翌年もまた同じことが起こるかも知れない。せめて、誰かがそばにいてくれるなら。涙は止まらないかも知れないけれど、悲しみの涙から、感謝と嬉しさの涙に変われる気がする。